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地公災基金秋田県支部長(公立小学校教員)脳卒中死控訴事件(過労死・疾病)

事件の分類
過労死・疾病
事件名
地公災基金秋田県支部長(公立小学校教員)脳卒中死控訴事件(過労死・疾病)
事件番号
仙台高裁秋田支部 − 昭和61年(行コ)第5号
当事者
控訴人個人1名

被控訴人地方公務員災害補償基金秋田県支部長
業種
公務
判決・決定
判決
判決決定年月日
1991年06月19日
判決決定区分
控訴棄却
事件の概要
 Y(大正14年生)は、昭和18年4月教員として採用され、昭和51年4月から大館市立の本小学校に教諭として勤務していた。

 Yは、本小学校赴任時、初めて1年生を担任したが、そのほか、教育委員会の委嘱を受けて公開研究会を行うことになっていたことなどから、自己の教材研究等を自宅に持ち帰って処理するなどしていた。Yは、昭和52年度持ち上がりで2年生の担任となり、昭和53年度は編成替えした3年生の学級を受け持ったほか、研究主任、放送部指導等を担当していた。

 Yは、昭和53年8月19日午前7時50分頃本小学校に出勤し、午前8時30分頃から10時過ぎまで行われた職員会議に出席した。職員会議終了後、図書視聴覚部指導部会に次いで午前11時頃から学年部会が開かれたところ、同部会開始後10分程したところで、Yが突然顔面蒼白になり、直ちに入院したが、同月30日、脳出血のため死亡した。   

Yの妻である控訴人(第1審原告)は、Yの死亡は公務に起因するものであるとして、被控訴人(第1審被告)に対し、地方公務員災害補償法に基づき公務災害の認定を請求したところ、被控訴人は、本件疾病は公務に起因したものとは認められない旨の決定(本件処分)をした。控訴人は本件処分を不服として、審査請求、更には再審査請求をしたが、いずれも棄却されたため、本件処分の取消を求めて本訴を提起した。

 第1審では、Yの死亡は公務に起因するものとは認められないとして、控訴人の請求を棄却したことから、控訴人はこれを不服として控訴に及んだ。
主文
本件控訴を棄却する。

控訴費用は控訴人の負担とする。
判決要旨
 脳卒中発症の原因としては、基礎疾患としての高血圧と、第二次的にこれに伴う脳血管疾患が挙げられるが、双方とも患者本人の遺伝的素質、食生活、気候、精神的疲労、ストレスなどの諸要因が相互に作用して発症、増悪することが認められる。しかして、Yの死亡に業務起因生があるかどうか、即ちその公務と死亡との間に相当因果関係が認められるか否かを判定するに当たり、Yの公務の遂行が脳卒中による死亡そのものの唯一ないし絶対的な原因であると認め得る場合、換言すれば公務遂行中これに関連して時間的場所的に明確にし得る異常な出来事が生じ、これのみが死亡の原因となっている場合であれば、立法当初の趣旨、目的に最も適合するのでこれを肯定しやすいわけであるが、現在においてはこのような場合に限らず、他にも原因と目し得るものが存在していても、日常業務に比較して質的量的に異常と評価し得るほどに過重な公務を課せられ、それによる過度の精神的、肉体的負荷が相対的に有力な原因となって自然的な進行以上に同人の高血圧症を増悪させて脳卒中の発症を惹起したと認め得る場合もこれを肯定してよいと考える。また、右の意味での過重な業務が日常化し、従って相当期間継続していた場合も固より同様に解すべきである。右二つの場合を通じて、過重な公務を課された最後の時と病変発症の時との間に日時の経過がある事例においては、この間隔が長くなるほど因果関係の存在を肯定し難くなるのは否めないところであるが、右公務による負荷と発症との間に医学上の結びつきが認められる限り、右期間を数日ないし1週間程度に限定して、これを越えるもの全てを救済の対象外とするのは妥当でないと考える。

 Yの昭和51年度から53年度までの受持学級の児童数、受持校時数、校内分掌事務の割当ては他の教師と比べて格別重い負担を負わせるものではなく、かえって、低学年の担任は高学年の担任より児童を下校させた後の勤務終了までの時間に余裕があり、そして、昭和51年度当初は初めて受け持つ新1年生の生活指導等と公開研究会の準備等で相当の苦心や苦労があったことは推測に難くないところであるが、生徒が学校生活に慣れるに従いその生活指導等にかかる負担も次第に軽減されることは明らかであり、また公開研究授業が終わってから以後は少なくともそのための準備はなくなり、公務負担が軽減されていることは容易に看取され、更に50日間ある夏休み、冬休みなどの長期休業の際は、そのうちある程度の日数は自宅で休養することが可能であった筈であるから、そのような疲れが年度末まで持続し残存、蓄積していたとは考えられない。昭和52年度Yは研究主任となったが、1年生の学級をそのまま持ち上がりで担任になったので、生活指導等の負担が少なくなり、昭和53年度もYは研究主任で教育委員会の研究会の準備等があったが、勤続30年の練達な教員である同人にとって難事というほどのことではなく、3年生の担任で生活指導の面で一層楽になったほか、高学年児童に生ずる特有の問題点に悩まされることもなかったということができる。加えて、Yは右期間を通じて病気で学校を休んだことはほとんどなく、自宅から毎日片道約6キロメートルの道程を自転車で通勤し、毎朝約30分間のジョギングを行い、校内のスポーツ試合にも参加するなど、健康的な、少なくとも通常人と同様の生活を送っており、同僚や家族の中にも同人の健康状態に異常を認めたものはいなかったというのである。もっとも、Yがこのような生活をしていたからといっても、それが直ちに高血圧が進行していなかった証左となるわけではないが、同人の全体的な健康状態がさほど悪いものでなかったことを示しているのは疑いを容れないところである。Yは昭和51、52年度も夏休み、冬休みなどの長期休業期間に自宅で休養を取り得る日もかなりあったと考えられ、本小学校に転勤直後の最小血圧がやや高くなっているものの、その前後で急激な変化は認められず、Yは自らの意思で治療を止めており、医師から労働軽減の注意もされなかった。更に、昭和53年7月26日からの夏休み期間中、Yには出張、出勤日が5日あったほかは、休日、職務免除日と自宅研修日であり、この自宅研修日は任命権者ないし学校管理者から拘束を受けないのであるから、夏休み期間中拘束を受けない日が発症前日まで休日を含めて19日間あったのである。そして、Yが夏休期間中に終日自宅にいたのは11日間あり、この間は精神的にくつろいだ状態で過ごし得たのは明らかであり、精神的・肉体的疲労やストレスがあったとしてもその回復に適した環境下にいたのである。加うるに、一般生活でもストレスは生じるのであって、これに対する生体反応にも、また脳血管疾患の発症にも著しい個人差があり、ストレスや過労と脳血管障害との関連、これを引き起こす仕組みや筋道などについて医学的に未解決な点も多いことが認められる。

 これらの事情に鑑みれば、Yの本小学校での右期間における日常的な公務が、同人の高血圧症を自然的進行を越えて増悪させるもの、即ち長期間にわたって過度に精神的緊張を伴う過重なものであったと認めるのは困難である。

 職員会議は殊更緊張を強いるような状況で進行していたとは考えられない上、Yと教頭との間で議論の応酬があったわけではなく、むしろ同人の意見が肯定的に受け取られるようなその場の雰囲気であったのであり、Yが右発言のため特に激しい精神的緊張、興奮に陥っていたとは考えられない。また当日は湿度こそ高かったものの気温は夏の日としては格別高かったとはいえず、全般的には薄曇りであったから、職員会議中終始Yの後背部に直射日光が当たっていたとは考えられず、直射日光によりストレスが高じる程不快感を覚えたのであれば、同人自身で日の当たらない場所に移動するなりして直射日光を避けることもできたのであるから、Yに日差しによるストレスの亢進があったとは考えられない。従って、右気象条件、環境の下で行われた職員会議が、Yに高血圧症を自然的進行以上に増悪させる程の過重な精神的緊張を伴うものであったと認めるのは困難である。

 Yの死因が脳出血であることは争いがなく、正確な死因は脳橋部出血である蓋然性が高い。しかして、脳橋部出血は脳枝動脈が破綻橋枝に生じた小動脈瘤の破裂により起こるものであり、長年の高血圧症により右小血管が弾力性を失い硝子様に変性していて、血圧との兼合いで右破綻が生じたことが認められる。そして、本態性高血圧症では降圧剤の服用を中止すると却って高血圧症が増悪するといういわゆるリバウンド現象が生ずることがある。しかして、Yは10年来の高血圧症であって、昭和49年までは治療を受けたことがなく、何回か降圧剤の服用を受けては止め、かかる経過の後昭和53年2月頃には頭重感、肩凝り、めまいなどの高血圧症の自覚症状を訴えるようになり、降圧剤の投与を受けて短期間に顕著な降圧効果を得たのに、同年3月を最後に通院を止め、以後降圧剤を服用せず、再び血圧は高い数値に戻っているのである。してみると、Yの本発症については、同人が長年にわたり罹患し、治療不十分なままできた高血圧症が、自然増悪の状態にあって脳血管の病変を形成し、それが進展して脳底動脈の橋枝の破綻を来して脳橋部出血を自然発症させたものであり、たまたま公務遂行の機会に生じはしたが、右死亡が同人の公務に起因するものと認めることはできない。
適用法規・条文
99:その他 地方公務員災害補償法24条、25条、31条、45条
収録文献(出典)
労働判例603号68頁
その他特記事項